シャンパーニュ地方から来た歩兵たち

シャンパーニュ地方から来た歩兵たち

シャンパン生産者による日本征服小史

うっとりするような数字
ほろ酔い気分を継続中! 日本市場におけるシャンパンの消費は、まさにはじけるような勢いで伸びている。2017年の国内 流通量(1300万本)はドイツやイタリアを凌ぎ、1993年との比較では実に13倍もの伸びを記録した。長きにわたるこの行軍の一歩を踏み出したのは、モエ・エ・シャンドンに名を連ねる義勇兵の面々である。「ゼロからのスタートでした」と当時を回想するのは、1980年代にモエ・エ・シャンドンの国際営業部長を務めるなど、シャンパンによる覇権掌握を目指し果敢に戦いを挑んできたジェームズ・ギルパン氏。バブル時代初期の80年代中頃に銀座の高級クラブ等で最ももてはやされていたのはフランスの最高級ブランデーのコニャックだった。日本が 「奇跡的」な経済成長を遂げた30年間、サラリーマンは極めて潤沢な企業接待費を使ってコニャックを飲みまくった。生産地を容易に特定できる(そのものずばりコニャック市!)この飲料にはこんな輝かしいエピソードもある。「日本におけるコニャックの売上はどうかと尋ねると、その度に『30%増』と報告を受けたものでした」と、1979~1994年にモエ・エ・シャンドン業務執行役員会会長を務めたイヴ・ベナール氏は回顧する。「コニャックの消費が爆発的に増加したのは、販売業者サントリーがコニャックVSOPを水で割る『アメリカン』という新しい飲み方を発明してからです。アメリカンコーヒーにひっかけたんですね」と、あるバーの元ホステスは語る。一方、当時のシャンパンは大型イベント開催時のいわば乾杯専用ドリンクにすぎなかった。元ホステスのサイトウ・ユミコ氏は「シャンパンと言えば1920年代、つまり『華麗なるギャツビー』や狂騒の時代を想起させる飲み物でした」と当時を振り返る。

天からのドン贈り物
1945年以降の日本の驚くべき成長を目の当たりにした同氏の頭にはもう日本のことしかなかった。しかしまずはこの目で見てから――そう考えたジェームズ・ギルパン氏は日本を訪れる。そして、イヴ・ベナール氏の協力を得て(この両名はいずれもシャンパーニュ地方出身)日本市場の開拓に着手する。まず始めたことは、コニャックの顧客向けに超高級品を売り出すことだった。パリからアンカレッジ経由で26時間かけて彼が毎月通い詰めたのは、他ならぬ銀座の地である。そこは世界中の蒸留酒販売業者が集うオアシスのような場所だった。彼のお供は バー市場向けマーチャンダイジングの切り札、ドン・ペリニヨンである。1670年頃、現在の形でのシャンパンを「発明」した僧侶の名前を冠するこのドン・ペリニヨン。モエ・エ・シャンドンの社員が誕生のエピソードを交えながら紹介するこの神父の傑作は、「ドンペ」「ドンペリ」の愛称を得てたちまちクラブを席巻する。やがて記念日や契約締結祝い、大学卒業祝いの席などにドン・ペリニヨンは欠かせないアイテムとなった。夜も更けた銀座の街では、この歴史あるドンペリのロゼに、あろうことかコニャックを混ぜ合わせた「ピンドンコン」と称するとんでもないカクテルがアイスペールで供され、そこに大勢でストローを突っ込んで飲んだものだった…… あっと言う間に飲み干されるシャンパンを供することは、クラブのママやホステスにも歓迎された。「コニャック1本空けるのに2時間かかるとすれば、ドン・ペリニヨン1本は10分で空になります」とジェームズ・ギルパン氏。加えて同氏には、シャンパンをボトルではなくグラス単位で供するというオリジナルなアイデアがあった。「ある日ニュー ヨークのプラザホテルで、女性客2人がグラスワインを傾けているのを見て、シャンパンもグラスで売ってはどうかとバーマンに提案しました。すると流通量が6倍増になったのです! 他国でもこうした試みを重ねてきました」。

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