ポール・ジャクレー最後の旅

一人の芸術家の魂が今、ようやく故国フランスに帰る。パリのケ・ブランリ美術館が今後彼の新居となる。2月26日から5月19日まで開催される特別展をここに紹介する。

 

たびだち
ポール・ジャクレーは1899(明治32)年、母とともにフランスを発ち、父の待つ日本に向かう。当時三歳の彼にとって、これはまさに転生の旅であった。こうして日本で生まれ直し、同国の学校教育を受けた最初の西洋人のひとりとなる。学校以外に英語、素描、音楽、一般教養の個人レッスンも受けた。この奇妙ユニークなサナギから唯一無二の芸術家が生まれ、日本と西洋の伝統芸術のあいだに己の進む道を探し求める。それは奇しくも芸術そのものの軌跡と重なる。四半世紀にわたるフランスのジャポニスム熱もようやく鎮まった1907年、若きポール・ジャクレーはパリを訪れ、父の導きでクールベ、ミレー、マティス、ゴーギャン、ピカソの作品を見て回る。東京に帰ると、日本画の古典的テーマである虫、草木、蝶、風俗に熱中するかたわらで、当時の日本の新芸術であった西洋画を黒田清輝、久米桂一郎といった大家のもとで学ぶ。
 こうして彼は一人前の画家となるにとどまらず、書家、音楽家としても類い稀な才能を発揮し、やがて浮世絵の蒐集家としても頭角を現す。その鑑識眼の確かさは、彼がこつこつと辛抱強く集めた歌麿、長喜、清長らの作品が証明している。
1929年、ミクロネシアに旅立ち、現地の住人の日常生活を絵画によって記録する。彼の水彩画は、その痛いほどに澄んだはかなさで、消え去り行く文明の最後の日々をとらえていた。

浮世絵師「若礼」誕生
1931年、東京赤坂に移り住み、ここに芸術活動の拠点、「若礼版画研究所」を1933年に立ち上げる。当世最高の彫師、摺師を呼び寄せ、厳しい規律のもとで制作を行う。彼は浮世絵のジャンルをフォルムとスタイルで刷新する。新しい題材、匿名の人物、日常生活の情景を取り入れることで、当時のモダニティ(近代性)を浮世絵と合体させるのである。彼の仕事は、役者絵や歌麿の美人画の構図と、遠近法を用いない浮世絵の人物描写からインスピレーションを得た肖像画の制作に収斂していく。伊豆大島、北海道、長野、佐渡、千葉、京都、ミクロネシア、韓国、満州等をめぐり、失われつつある各地の伝統や風習、そして人々の最後の姿を絵に焼き付けようとした。伝統衣装を身にまとったアイヌの古老、中国の美人、韓国の青年……。彼は自分の使用する高級和紙、生漉(きすき)奉書の製造にも革新をもたらした。
日本人に認知されるものの、1941年に太平洋戦争が勃発し、東京は激しい空襲にさらされたため、五年間活動を中止せざるを得なかった。

再出発
戦後、彼は活動を再開し、成功を取り戻す。進駐軍が彼の再出発に弾みをつける。1946年より、二カ所のアメリカ軍基地で展覧会が三度開かれ、彼の名声はアメリカ、オーストラリア、イギリスに広まる。死の直前まで仕事を続け、1960年逝去、亡骸は東京の青山墓地に埋葬された。

「ケ・ブランリ美術館の特別企画展は、この芸術家の水彩、素描、版画の秀作を計160点以上初めて紹介するとともに、版画制作に使われた版木一式、同館およびパリ国立自然史博物館所蔵オブジェ、視聴覚プログラムが補足展示される。」と同館は語る。ケ・ブランリ美術館は、このほどポール・ジャクレーの養女、稲垣テレズ氏より、画家の作品全2,950点以上(スケッチ帳複数冊、鉛筆素描)、および遺品(版木、アジアおよびインドネシアの小像、仮面と衣装、主に日本の装飾用オブジェ)を寄贈された。

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