企業トピックス

企業と文化、日仏の懸け橋

在日フランス商工会議所理事であるクリスチャン ポラック氏(株式会社セリク)の記事が2024年1月22日(月)に発行された日本経済新聞に掲載。企業と文化、日本の架け橋として活躍されているポラック氏の軌跡をご覧いただけます。

以下記事文となっております。
詳細記事は日本経済新聞のサイトでご覧ください。

幕末の日本と、私の母国フランスで日仏修好通商条約が結ばれて160年以上、多種多様な交流がなされてきた。私は両国に顧客企業を持つ経営コンサルタントでありながら、日仏交流史を半世紀にわたり研究する。ビジネスの現場と文化の両輪で日仏を見つめる、風変わりな存在といえる。

1918年、仏国商業会議所(現・在日フランス商工会議所)が設立される。横浜に56人、神戸に59人のフランス人が滞在したとの記録が残る。幕末・明治の絹産業を中心に始まった産業交流は、20世紀を通じて自動車、航空機、化粧品などへと広がった。ルノー、ミシュラン、エアバス、ロレアル……日本でもなじみ深い企業は多い。100年後の2018年には1万1千社が日本でビジネスを展開する。

私は仏南西部、ピレネー山脈麓の片田舎で育った。読書好きの青年は、はるか東洋の漢字文化に興味を抱き、1971年に国費留学生として海を渡る。一橋大学で日仏外交関係史を学ぶ中で、大学に残り研究に身をささげる将来を思い描いた。

しかし当時の日本では、外国人が国立大教授になる道は閉ざされていた。肩を落とす私に、日仏交流史の権威、高橋邦太郎先生が声をかけてくれた。「教授になっても欲しい本すら買えない。君は会社を起こして存分に稼ぎなさい。そして史料を集めなさい」

81年にセリクを立ち上げ、日本や欧州の企業相手にコンサルを始めた。その頃「外国人の息子」と家族同然にかわいがってくれたのが、ホンダ創業者の本田宗一郎さんだ。仏大使館の通訳を務めたことで知り合った。

彼は「飛行機をつくりたい」と夢を語った。そして仏航空機メーカー創業者のマルセル・ダッソーさんに「会いたい」とも。戦時中に模倣してプロペラを製造したのを謝りたかったのだ。パリで2人を引き合わせると、ダッソーさんは寛容だった。同社製と競合しない、より小型機に的を絞ることを条件に、開発への協力を約束してくれた。

研究所を自ら案内してくれたこともある。技師出身の2人は馬が合った。ダッソー社が開発した3DCAD(コンピューターによる設計)を、ホンダがいち早く導入し、日本の製造業へと広がった。やがて2人の没後開発された「ホンダジェット」は世界の空を飛び回っている。日仏経営者の交流が実を結んだ好例といえる。

私はビジネスの傍ら、史料収集に心血を注いだ。外交史料館など公共施設の史料は調べ尽くした。そこで目を付けたのは、探偵のような手法だった。歴史の登場人物の子孫の居所を探り直接会いに行く。物置にしまい込まれた江戸や明治期の書類を見せてもらう。学術的意義を説明し、借りたり、譲り受けたりする。

手掛かりが乏しい時は、電話帳を調べ、片っ端からかけ続けることもある。こうして風刺画家ビゴーや、映画「ラストサムライ」のモデルにもなった仏陸軍将校ブリュネらの子孫と連絡を取り、貴重な未公開資料を発見することができた。

史料探しの快感は、毒にも似ている。稼ぎをつぎ込み十数万点を収集した。60歳までに集めた資料の多くは、11年に明治大に託し、研究や展示に役立ててもらっている。

いつも1枚の形見写真を持ち歩く。パイロット帽を着けた10代の本田少年が、おにぎりをほお張る姿が写っている。その笑顔は私の背中を押してくれる。過去を振り返る研究と、未来志向のビジネスを通じて、日仏の相互理解に貢献すること。その使命にまい進していきたい。

(セリク社長)

株式会社セリク 

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