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ポッドキャスト Itinéraires singuliers – 翻訳者からスポーツ解説者へ:フローラン・ダバディ氏が日本で地位を築いた経緯

1994年に日本にやって来たフローラン・ダバディ氏は、当初スポーツの道に進むつもりはなかった。文学的な人間であり、東洋言語を学んでいた彼は、「他者への気配り」が厳密に体系化された社会、つまり「礼儀」が共に生きるための基盤として考えられている国を発見した。多くの人がそれを束縛と感じるところで、彼はむしろ安心と刺激を与える秩序として見ていた。
転機はほとんど偶然に訪れた。東京のアシェット社で若い編集コーディネーターとして働いていた彼は、ある日一つの求人広告に目をとめる。日本サッカー協会が、フランス人監督のための通訳を募集していたのだ。まれな経歴を持つ彼にとって、それは唯一無二の機会だった。こうして彼は、プロサッカーの真っただ中へと放り込まれる。満員の記者会見、厳しいロッカールームの規律、そして世界中を巡る遠征。言葉の学校であると同時に、文化観察のための加速講座でもあった。
この没入体験を通じて、彼は一つの逆説に気づく。国際舞台では、日本人選手たちはスポーツ面だけでなく文化面でも衝撃を受けていた。国内サッカーは守られすぎており、むしろ閉鎖的ですらあった。だからこそ、彼らを「国家という繭の外」で待ち受ける現実──強度、対立、予測不能──に備えさせる必要があったのだ。
その後、フローランはスポーツジャーナリズムへと転身する。最初はサッカー、次にテニスへ。彼は、日本においてスポーツが「世界への開かれた窓」となっていることに気づく。国内リーグよりも代表チームが圧倒的に注目され、組織はホスピタリティに細心の注意を払い、外国人選手たちは安心してプレーでき、記者同士の対話も他国よりスムーズだ。トップレベルの競技は、やがて日本という国の「世界へのショーケース」となっていった。
とはいえ、日常生活は訪問者へのおもてなしだけで成り立つものではない。社会のコードに慣れるには時間がかかる──上下関係、儀式的な習慣、人間関係における慎重さ。バランスを崩さずに、行動の余地を見出すことが求められる。フローランはこれを「適応」と呼び、「譲歩」ではないという。ルールを学び、その上でいつ・どのように逸脱できるかを知ることが重要なのだ。
フィールドの上でもスタンドでも、日本には独特の雰囲気がある。情熱的でありながら、常に抑制が効いている。サポーターは熱心だが礼儀正しく、暴走はほとんどない。家族で安心して観戦できる──それはヨーロッパのサッカー文化とは際立った対照をなしている。
25年のキャリアを経た今、彼の結論は実に実践的だ。「好奇心とは、一つの方法論である」と。好奇心があれば、人の話を聞き、文化を読み解き、時にユーモアや率直な表現で誤解し合う二つの文化の橋渡しができる。そしてそれはまた、自分自身を見失わず、孤立することなく生きる助けにもなる。
フローラン・ダバディが日本を選んだのは、異国情緒を求めてではない。彼はここで、自分自身と調和して生きられると感じたからだ。
スポーツを語ることによって、彼は今日も、互いをより深く理解しようとする二つの世界をつないでいる。
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このポッドキャストは Anna とのコラボレーションで実現