ダンスのために邁進

佐藤まいみ インタビュー

ダンス界の著名なプロデューサー、佐藤まいみさんにこのほど芸術文化勲章オフィシエが授与された。日本とフランスの間にいくつもの架け橋を築いてきた佐藤さんのこれまでの業績が評価されたものだ。7年前から佐藤さんが拠点のひとつにしている、さいたま彩の国芸術劇場で行ったインタビューでこれまでの経緯を聞いた。

FJE:佐藤さんとダンスとフランスとの関係はどのように生まれたものなのでしょう。
佐藤まいみ:実家は岩手県で、菓子職人の家でしたから、地震も温泉もよく知っています。小さい頃から地元の祭事で見るお神楽や盆踊りなど、ダンスが大好きでした。ひとりで振付けを考えたりしていましたが、近所にダンスを教えてくれる教室などあるはずもありません!ですので、私の経歴はちょっとアナーキーなのです。興味をひくものがあるとまっしぐらに挑み、難しいことがあっても切り抜けてきました。故郷の村を出てからは、数学、バレエ、モダンダンスを学び、ラジオから流れてきたミッシェル・ポルナレフの歌を聞き、フランス語を習いたいと思いました。当時のダンサーはニューヨークにダンスを学びに行きましたが、私はフランス語への憧れもあってパリを選びました。そしてヌーヴェル・ダンスに出逢ったのです。パリは特別な場所です。自国では花を咲かせることができない前衛芸術のいくつもが、パリで開花し認められていました。たとえば日本の舞踏は、80年代日本よりむしろフランスで評価されていたのです。やがてダンス公演のオーガナイザーたちと知り合い、私もその道に進むよう励まされました。

FJE:その後、主にどのような仕事をされてキャリアを積まれたのでしょう。
佐藤:パリとフランス国内で研修や公演が行えるよう大勢の舞踏家の手助けをしました。その中には、1986年にバニョレ国際舞踊コンクールで優勝した勅使河原三郎もいます。以後彼のヨーロッパでの活動を支えました。日本はやがて豊かな国になります。そして1987年からスパイラルがアートイベントを催すようになり、アートパフォーマンスのための新しいスタイルのスペース「スパイラルホール」を立ち上げるにあたって協力を求めてきたのです。私のような体験をしたことがあるひとは当時誰もおらず、帰国した私はまるで外国人でした。また、横浜市が主催する第1回パフォーミングアート・フェスティバルの芸術監督に任命され、以後2004年まで横浜でダンス・フェスティバルをオーガナイズしました。神奈川県民ホールの仕事もしました。

FJE:フランス・ダンス2003年も佐藤さんのディレクションでした。
佐藤:フランス・ムーヴスのニューヨークでの成功を受けて、AFAA(現アンスティチュ・フランセ)のディレクター、オリヴィエ・ポワヴル=ダルヴォールが日本でも同様のイベントを開催したいと望んだのです。そこで私は開催地を東京に特化せず、地方の劇場も巻き込まなければと考えました。彼の命を受けて、日本国内10都市にまたがるフェスティバルをオーガナイズしました。日仏共同制作となったフィリップ・ドゥクフレの「イリス」は、世界にさきがけて横浜で初演されました。大変でしたが、やりがいのある素晴らしい仕事でした。

FJE:佐藤さんの職種における女性の位置づけについてどう思われますか?
佐藤:日本はまだまだ男性上位の国だと思います。とりわけ責任ある立場を担うのは男性です。90年代なかば、立派な劇場がいくつもオープンし、男性が仕事を求めてつめかけました。ところが劇場にお金がなくなりはじめ、安定したキャリアを積むのが難しいとわかったのでしょう。今はどんどん女性が増えています。実務をこなしているのは多くの場合、女性です。日本の民主主義の歴史はまだ浅く、真の男女平等に至るにはまだ時間がかかることでしょう。

FJE:現在進行中の、そして今後のプロジェクトの予定は?
佐藤:彩の国さいたま芸術劇場では、6月にマギー・マラン、11月に初来日となるマチルド・モニエの二人の偉大な振付家によるダンス公演を準備中です。2014年にはまだ予定ではありますが、フィリップ・ドゥクフレの公演も。そして2015年に横浜で第2回フェスティヴァル・ダンス・ダンス・ダンスの開催を検討しています。

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