リスクを畏れず

孫正義は手に触れるほとんど全てのものを黄金に変えてしまう。すべて彼のもの! 

先見の明あり 
2010年6月25日、ソフトバンク社長、孫正義は東京で開かれた株主総会の場で、株主の前に姿を現した。「私は恐らく、自分の人生で最も重要なお話を皆さんにすることになります」と経営者は切り出した。続いて彼はプラトンやアインシュタイン、第二次世界大戦の前に14歳の年齢で日本に渡ってきた朝鮮人の祖母のことなどを織り交ぜながら、2時間以上も話し続けた。この長いプレゼンテーションで、当時53歳だった孫正義は今後30年にわたる新成長戦略を披露したかったのだ。
日本のアナリストたちや経済界においては、孫正義の「先見」は時に、失笑を買うときがある。しかし、彼が示したヴィジョンは彼のダーウィン的経済進化論の読みの中核を成すものである。現在実存する企業の99%は今世紀後半には現行の形では存続していないというのが彼の考え方だ。彼の競合他社が多大な利益を享受しているとき、彼は負債を減らし、信用格付機関の格付等級をより良くすることを考えているのだ。
2012年10月に、アメリカの携帯電話事業会社スプリントの株式の70%を216億ドルを投じて買収すると発表したとき、ソフトバンク社長はこの買収が「簡単には行かないだろう」と認めていた。彼の側近の多くがこのオペレーションはリスクが高いと判断し、なんとか思いとどまらせようとした。ファーストリテイリング社長でソフトバンク取締役に連なる柳井正さえも慎重論派であった。

貧困から始まった一歩
九州の小さな町、鳥栖の貧しい一隅に生まれた移民の息子は、日本のエリート達の臆病さを馬鹿にしながら、本能の導くまま、彼の帝国を作り上げた。1970年代終わり、シャープにポケットサイズの小さな自動翻訳機を売り込み、アメリカで最初の100万ドルを既に稼ぎ出した時は、まだ20歳にもなっていなかった。彼はその利益を日本のビデオゲーム機を買い取ることに投資し、そのゲーム機をカリフォルニアのバークレー校のカフェに設置して成功したのだった。
日本に戻ると、彼はアメリカのソフトウェアを輸入するための会社、ソフトバンクを設立した。2001年には日本国中に無料モデムの提供と格安通信料金を提案し、それまで高く固定されていた通信料金で利益を享受していた通信サービス事業者の「金の成る木」を切り倒した。2006年には、151億ドルを投じてボーダフォンの日本法人を買収し、そこを起点に新たにNTT DoCoMo と KDDIに攻撃を仕掛けた。その頃から彼は日本のエネルギー市場にも同様に価格破壊をすると心に決め、原発をなくしたいと考えていた。携帯でのゲームにも取り組み、昨年はフィンランドのスーパーセルグループに株式取得を持ちかけている。また、一般家庭向けロボットに改革をもたらす発表も行った。

失敗
彼の打つ手が全てうまくいくとは限らない。2000年のインターネットバブル崩壊によって、巨額の損失を出した。また、スプリントの子会社化は非常に高いものとなり、彼が期待したものよりはるかに複雑なものになった。しかし、彼の予定表には今から2040年までに5000社に投資をするとの約束が書き込まれている。
彼のファン達は、過去の発見を忘れない。今年の9月19日、中国の電子商取引プラットフォーム最大手アリババがアメリカで上場したとき、彼はニューヨーク証券取引場で創設者ジャック・マの傍らにいた。彼はこの中国の起業家と14年前に、友人でヤフーの共同設立者ジェリー・ヤンの勧めで出会った。二人は、直ちに意気投合し、孫正義はアリババに2000万ドルの投資をした。「一見するだけで充分です。ほとんど動物的直感です」 。それが始まりだ。後に、孫正義は中国グループの第一株主になるために投資額を 1億ドルに 押し上げた。上場した今、その投資額は500億ドル以上の評価価値となった。ソフトバンクは、アリババが上場されたことで5000億円(35億ユーロ)の半期特別利益を計上するだろうと発表した。

このページをシェアする Share on FacebookShare on TwitterShare on Linkedin