向かい合うフランス料理と日本料理

ヒラメのムニエル
山本益博は、1973年10月23日の夜、彼がまだ若き十代の頃から探していた本物のヒラメのムニエルを食べた感動を思いだす。
その料理こそ、後の日本におけるフランス料理の真髄となるのだが、何故それがヒラメのムニエルなのか?ヒラメは日本では珍しい魚ではないし、いったいどんなバターを使っているのだろう?ロワシー空港に到着した初日、彼はリップでその料理を食べ、その味は素晴らしいとしか言いようがなかった。その後、山本益博は200回以上もフランスを訪れ、約100冊もの料理本を書き、40年間もの歳月を日本とフランスの料理家の間を行き交うことになる。それは変わることのない、フランス料理への愛と尊敬の象徴である。
フランスにも日本と同様、多くの料理のバリエーションがあるが、フランス料理文化センターの大沢晴美事務局長は、西洋料理を木にたとえるとしたら、フランス料理はその木の幹で、スペイン料理やイタリア料理、その他の料理はその幹から伸びた枝であると言い、そして、その木は素晴らしい果実を実らせた。2013年のミシュランはフランスのレストランには27の三つ星、日本のフランスレストランには32の三つ星を授与した。1960年以来、日本のフランス料理は確実にグレードアップされている。大きなホテルでしか食べることのできなかったフランス料理を、ピエール・トロワグロは1964年に東京にマキシムを開き、すぐにフィガロ(!) という名のビストロを開いたと山本益博はその素晴らしさを語っている。40年以上も日本に高級ワインを輸入しているアーニー・シンガーは《その時代日本人は騙されていた》と言う。日本人はビザなしの不当労働で、皿洗いをしながらレシピを盗み、レストランでは、日本人観光客は招かざる客として応対されたが、それでも彼らはフランス料理に満足して帰って行ったのだ。70年代初頭にフランスのシェフ達は日本を旅行し、フランス料理に革命的な新しい世界を見いだした。今や、お馴染みとなった、天ぷらや巻(寿司)はフランスの家庭のメニューの一つとなっている。1973年には、ポール・ボキューズとピエール・トロワグロ、そしてルイ・ウーティエが再度日本を訪れ、デギュスタシオン・コースを思いつき、また京都の懐石料理に見られる手法は、後にアンリー・ゴーとクリスチャン・ミヨーによってヌーベルキュイジーヌを発信させることとなったと山本益博は述べている。

フランス料理に栄光の日々が訪れる
バブル経済の80年代、パッサール、ボキューズ、ガニエール、デュカス、ブラス・・・フランスのシェフ達がこぞって世界の食の中心である東京にレストランをオープンする。東京の2つ星、アトリエ・ロブションの前料理長は、《東京のレストランは最も収益性があり、地域の新鮮な食材が卓越しており、また最高のサービスが受けられる》と言う。トロワグロから独立して銀座にエスキスをオープンした若いシェフ、リオネル・ベガはロンドンや他の国には食材を持ち込む必要があるが、日本の食材供給は素晴らしく安定しており、完璧で言うことなしだ、《日本人が唯一探している物があるとしたら、それは「完璧」であること。シェフが弟子に平手打ちをする唯一の国である。洗練された客の望みはまさしく私が望むものであり、それこそが私が東京を選ぶ理由なのである》そう続けた。

2006年以降減っているフレンチレストランは、生徒であった日本人がフランス人のシェフの座を奪い、今や日本人シェフ達はフランス料理に投資し続け、2013年のミシュランによれば17人の日本人シェフがフランスにレストランを持っているという。それは30年もの間、地味地にフランス料理を学んできた証しであるとリオネル・ベガは言う。こんにちでは私達が日本人シェフに教えられることが多く様々な影響を受けている。有名なアトリエ・ド・ロブションの50cm幅のカウンターは、寿司職人が客との対話にとって理想的な距離であるとロブションに語ったからであると山本益博は言う。
ロブションは寿司職人の目の前で直ぐにカウンターの距離を測定したそうだ。その寿司屋の名前?知りたければ私達にお問い合わせ下さい、もしかしたらお教えするかもしれませんよ・・・。

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