岸信介と大いなる逆コース

現代になお生き続ける男
アメリカ進駐軍の占領終了から5年もたたない1957(昭和32)年2月23日、元A級戦争犯罪容疑者の岸信介が日本の内閣総理大臣に就任する。以来、「逆コース」を始めるこの男はいったい何者か。逆コース、それは自由民主党と官僚の最右翼が今日もなお希求し続ける反動政治の大いなる流れである。

弟、佐藤榮作と同じく東京帝国大学を卒業した信介は、1936年の二・二六事件でその大半が銃殺刑に処されることとなる極右青年将校らの提唱する「汎アジアのナショナリズム」に強く影響されていく。ほどなく、国益の名の下に財閥の支配を目論む軍閥らに近い若手テクノクラートのリーダーとして頭角を現す。1936年、陸軍の抜擢で満州国実業部次長に就任し、同国の開発計画を担う。翌年、満州の防衛を担う関東軍の参謀長となるのは、後に陸軍大臣、内閣総理大臣を兼任する東条英機その人に他ならなかった。東条とともに帰京した信介は、1941年、商工大臣として入閣し、1943年には軍需次官と国務大臣を兼任する。サイパン島陥落後、東条から辞任を迫られるが、日本軍の敗北を予感した岸はこれを拒否する。これにより、東条内閣は1944年7月、総辞職に追い込まれ、平和派に道を開く。しばし後、岸は戦争犯罪人として巣鴨プリズンに収監されるが、1948年には早々とGHQの特赦措置により釈放される。左派の台頭するなか、アメリカの関心は日本の民主化よりも世界秩序の回復のほうに移っていたのである。

この時、兄とは別の道を歩み、吉田茂首相の信頼を得ていた佐藤榮作が、岸を自由党に入党させ、衆議院議員当選の手助けをする。吉田と対立した岸は日本進歩党とともに1954年、日本民主党を結成すると直ちに幹事長に就任する。こうして彼の政治家としての新しいキャリアが幕を開け、内閣総理大臣の座まで駆け上がっていくのである。

目標は今も変わらず
自由党と民主党が合流して1955年に誕生した自由民主党と日本の官僚の「逆コース」の目標は今日まで本質的に変わっていない。岸の実の孫、安倍晋三内閣総理大臣はこの道を歩み続ける。目標はずばり、憲法を改正すること。日本の軍隊保持と交戦を妨げている第九条を削除すること。これの達成を待ちながら、地方自治、労組、表現の自由といった国民の権利を少しずつ制限していかなければならない。日本古来の国家の象徴も復活させなければ。それは連合国軍最高司令官に禁じられた日章旗の掲揚と君が代斉唱である。西洋暦を日本古来の暦および元号に置き換え、学校に道徳の授業を復活させ、アメリカ人によって「浄化」された学校教科書を書き換えよう。「自衛」を極限まで拡大解釈して再軍備化を達成しよう。

総理大臣に就任すると直ちに、岸はあらゆる戦線で激しい攻撃を展開し、同様に激しい抵抗に遭う。厳しい紛争、警官との暴力的な衝突の末、労組の自由は殺がれ、ストライキの権利は制限されていく。教育の奪回はすでに始まっていた。極右の激しい攻撃を受けていた左派教師らの労働組合、「日教組」の激しい抵抗の末に、教師らの政治活動が一切禁止される、1958年、警察の権限を強め、これにあらゆる反対勢力を一掃する権限を与える「警察官職務執行法改正案」を提出する。1930年代に戻ったかのようなこの時代錯誤の法案に反対する声が一斉に上がり、報道関係者やゲバ棒を携えヘルメットを被った武装学生組織、全学連までもがこれに同調する。岸は極右勢力に結束を呼びかけ、1959年、全日本愛国者団体会議(全愛会議)が設立される。戦時中、いずれも巨万の富を手にし、巣鴨プリズンの「獄友」であった児玉誉士夫、笹川良一らがこの組織の最高顧問に就任し、任侠団体との橋渡しも行う。冷戦時代、これらの勢力は全て、日本が好ましからぬ方に傾くのを怖れる占領者アメリカの庇護のもとにあった。しかし、(新)日米安全保障条約は、岸を未曾有の暴力的空気の中に追い込み打ちのめす。アイゼンハワーの来日は路上デモ隊の圧力により延期され、ついには中止となる。条約は1960年6月18日にようやく改訂されるものの、岸はただちに辞任を余儀なくされる。

岸信介の正当たる継承者、安倍晋三は祖父と同様、右派たることに何の負い目も感じていない。彼は自民党の最硬派が希求するこの政策をなんとしても達成しなければならない。それはおそらく父の時代よりも簡単であろう。なぜならこの国のナショナリズムはいったん下火になったものの、今再び盛り返しつつあり、それに引き換え、抵抗運動は牙を殺がれ、おとなしくなってしまったからだ。

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