悪しきことの記憶

戦後直ちに、広島市と日本政府の推進により、広島の原爆ドームを保存することが決定された。鉄骨をむき出しにして立っているこの幽霊屋敷は敗戦の象徴であり、取り壊される筈であった。悲劇の証人であるこの場所は、それを記憶する町の象徴であり、ここを目指して毎年150万人の旅行客が弔意を表しにやってくる。その内23万人はアメリカ人だ。この「核兵器のドーム」は悲劇を記念する59のモニュメントのひとつである。ドームと共に記念公園には丹下健三設計の弓型をした記念碑があり、爆弾による死者全て(176,964名)の名前が59巻に亘って記され納められている。そして最も訪問者を迎えているのは広島平和記念資料館である。
さらにこうした場所や記憶の建物に加え、被爆した人々(ヒバクシャ)、つまり爆発から生き残った人々即ち爆発に直接曝された人たち、原爆投下から2週間以内に爆心地から2キロメートルの範囲に立ち入った人たち、救急隊員、最後に1945年8月6日に生まれる予定だった子供達とその母親たち、3段階になったカテゴリーに所属するこれらの人々が町の生きる記憶を構成している。

広島と真珠湾
ヴォルゴグラード(旧スターリングラード)や真珠湾と姉妹都市を結んでいる広島市は、平和主義者の会議や集会を迎え入れる国際的平和センターとしての評価を確立している。広島市は歴史上前後2回の「検閲」を経て、今日では過去を完全に受け入れている。検閲とは、即ち爆撃から降伏(1945年8月15日)までの間、日本軍事体制が国民に一切何も公表しなかったこと、二つ目はアメリカ占領軍が1945年まで爆弾の影響に関する情報を封じ込めていたことを指す。忘れてならないのは、被爆者自身が恥と感じ被爆したことを隠そうとし、日本政府も爆弾を認めなかったため、当然被害者の存在も認めようとしなかった。被爆者は自国で差別を受けながら、この検問に共犯していたのだ。広島自身も長い間、惨事の影響のみに目をやっており、その元となるものを「忘れて」いた。1994年に平和記念資料館の中に「原爆が落ちる前」という小さなコーナーが設けられ、欠落していた部分が非常に限定的に修整された。
そして1994年、広島市長、平岡敬(ひらおか たかし)氏がユネスコの世界遺産委員会に原爆ドームの登録を申請した。アメリカは戦争に関係する場所はその性格上異議の対象になるとし、従って世界遺産と認められるべきではないとして、これに反対した。それに加えて、かくの如き登録は爆弾投下の歴史的な理由を隠ぺいする危険性があると主張した。事実、今日多くの日本人にとって広島と長崎の原爆の閃光は帝国軍が犯した残虐性の責任という考えを全て消し去り、犠牲者だけを作ったのである。彼等にとって太平洋戦争は広島で始まり、しばしば広島で終わっているのだ。中国は遠回しに隣国によってもたらされた侵略戦争に自国民が耐えた苦しみをこの登録が思い出させてしまうであろうと述べた。しかしユネスコは、アウシュビッツの強制収容所が既に世界遺産リストに載っていることから登録を了承した。

修復
広島はその後直ちにモニュメントを原爆後の姿で保存することに取り掛かった。息の長い仕事であり、3年ごとにチェックするリズムで今でも続けられている。2007年には、この建造物がリヒター・スケールでマグニチュード6以上の地震には耐えられないことが確認された。そこで、基礎を強固にする決断がされ、新たな経費が市の予算から確保された。これらの耐震工事に関して広島市は世界中に知られたドームの外観を傷つけないように文化庁の意見に合わせて活動している。どちらかと言えば微妙な基準に合致させる工事は原爆投下70周年にあたる2015年8月6日に開始されることになっている。
クリスチャン ケスラー、歴史家、東京のアテネフランセ教授、大学で教鞭をとる

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