文学

日本人と戦争
ミカエル・リュケンの本の世界ではすべてが完璧な音符を奏でる。表紙の写真からしてそうだ。そぼ降る雨のなか、空襲の焼け跡も生々しい瓦礫の山の前を、おんぼろのこうもり傘を差した日本人らが通りかかる。彼らの眼差しはカメラマン、実はミカエル・リュケン本人の眼差しに応える。なぜなら、この本は権力者の視点ではく、庶民の目から見た戦争を語っているから。

この本はさまざまな意味で大変独創的だ。第二次世界大戦をこうした視点から総括しようと試みたフランス人歴史学者は殆どいなかったし、我々が知る限り、アメリカ占領下の時代を彼のように捉えた人はいない。多くの日本人にとって第二次世界大戦とは1930年から45年までの「15年戦争」のことである。ミカエル・リュケンの本は、日本軍が中国にその影響力を拡大した1937年に始まり、アメリカ合衆国による日本占領が終了した1952年で幕を閉じる。物語の前半は日本の敗戦が色濃くなる1943年まで。後半は敗戦、そして占領時代だ。

しかし、最も印象的なのは出典の多様さだ。ミカエル・リュケンは小説、映画、手紙、日記を「総動員」して当時の日本の実像にせまる。彼はその時代の凶暴性を蘇らせる。例えば前線で倒れた日本人兵士の遺体を帝国陸軍がどのように処理したかの記述は酸鼻を極める:「一兵卒の場合は片方の手、または指を一本切り取った。士官の場合、できれば片腕、または頭を切断したものだ。」大戦末期、軍は直接兵士たちから身体の一部(爪、髪など)を集めた。彼らが生きて帰らぬことを前提として、遺族に渡す「形見」である。軍はまた兵士たちの葬儀を見越して、遺影用の写真を撮った。銃弾に当たる前から兵士たちはすでに死んでいたのだ。

この本は、日本が知らず知らずのうちに奈落の底に堕ちていく様を描きながら、逆説的に日本人特有の国民性というものをそこに見出そうとする行為の虚しさを説く。日本人は多くの歴史学者がそう信じたがったように、政府の命ひとつで屠殺場におとなしく連れて行かれる家畜ではなかった。彼らは、ミカエル・リュケンが参考にした手紙や日記に見られるように、徹底して懐疑的で批判的、かつ明晰であった。「歴史の詳細に立ち入ると見えてくるものがある。それは国民性に優劣をつけるのは無駄だということ。この世は諸行無常、存在するのは一時の形体だけ。ある日形を結ぶ物も、翌日には風化する」とリュケンは観察する。日本人は一見すると「均質的」な国民性をずっと保ってきたように思われる。でもその実は猫と変わらない。夏目漱石は次のように観察している「どの猫も自家固有の特色などはないようであるが、猫の社会に這入って見るとなかなか複雑なもので十人十色という人間界の語はそのままここにも応用が出来るのである。」

Les Japonais et la guerre, 1937-1952(日本人と戦争 1937-1952年)ミカエル・リュケン著、ファイヤール社刊

女の未来は女が築く

格差は日本の主要な論争テーマのひとつとなった。社会学者橘木俊詔氏はこの著書の中で、日本女性の現状の観点から格差問題を考察する。家庭の「主婦」の称号を贈られているとはいえ、日本女性はまだ金銭面では男たちに依存している。「男」とは大抵の場合、給料を稼いでくる夫であり、父親からもしばしば子供の教育費の援助を受ける。ただし、その教育も、女子より男子が優先。学校で女子は芸術や文学といった文化系の課程を選択する傾向にあり、当然男子よりは信用の低い職に就くようしむけられる。現在のところ、女性の多くは管理職より実務職に従事しており、しばしば非正規雇用の地位に甘んじている。彼女らは今、こうした宿命から脱しようとしている。職業的野心をはっきりと打ち出し、会社からの支援措置も受けられるようになった。しかし今、女たちは選択を迫られている。「出産かキャリアか。」男たちにはこの選択は一度も突き付けられたことがない。第一子誕生(男の場合「出産」と言わない)を理由に3年間職場を去る男がどこにいるだろうか?平均3年間のブランク、これが日本女性の直面する現実だ。本書は日本社会における格差の要因を取り除くよう呼びかける。そして結びの言葉は極めてプラス思考である。「女性の方が選択肢が多い柔軟な人生が送れるのであるから、それがうまく行けば満足度でも男性より高い人生なのではないか。」

橘木俊詔著 『女女格差』 東洋経済新報社

英語版:“The new paradox for Japanese women : greater choice, greater inequality”

Ⅰ-ハウス・プレス刊

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