「日出ところのエトワール」

日本人に絶大な人気を誇るダンサー、ニコラ・ル・リッシュがオペラ座から引退。日本での足跡を辿る。 

あふれる才能 
ニコラ・ル・リッシュは、同世代の仲間たちの中でも最高のダンサーと言われる。その世代自体が、初めてクラシック・バレエとコンテンポラリー・ダンスの両方を極めた、稀有の世代である。ニコラの日本との出会いはかなり早く、当時、彼はまだオペラ座のダンス学校の学生であった。彼はそれを一つの衝撃として、一つの文化的出会いとして語る。1993年、弱冠21歳でエトワールに任命されたことで、1994年彼は東京「世界バレエフェスティバル」に招待される。観客はニコラを、そのパートナーであるマリー=クロード・ピエトラガラとともに、初めて目にする。若く美しい二人は、その身体と踊りとで観客を魅了したのだ。以後、日本の観客は、彼の類い稀な才能を幾度も観賞する機会を得る。1997年、ニコラはその若き妻クレールマリー・オスタをパートナーに、ワールド・プレミアとなる『ジゼル』を演じた。この不世出のダンサーの二人目のダンスパートナーとなるのは、シルヴィー・ギエムだ。飽くなき向上を求める彼女は、彼の成長を助ける。1999年に二人が『眠れる森の美女』を踊ったとき、極限の美しさを誇る伝説の踊り手であった彼女を輝かせたのは、まさに彼であったに違いない。2000年の「バレエ・フェスティバル」では、彼らは『ドンキホーテ』、『ジゼル』、『白鳥の湖』を演じ、観客は、歓喜の渦に包まれた。2001年夏には、ロラン・プティが彼のためにスペクタクル『ニコラ・ル・リッシュの世界』を制作するが、ニコラは怪我のため、チケット完売後に出演をキャンセルしなくてはならなかった。2003年のオペラ座世界巡業では、新エトワールとなった妻のクレールマリーとともに、NHKホールで、ルドルフ・ヌレエフ振付・演出の『ラ・バヤデール』を踊っている。

ニコラなしの年はあり得ない
フェスティバルから巡業までの間、ニコラはシルヴィー・ギエムとの共演で毎年出演している。その芸術が頂点を極めた2010年には、オレリー・デュポンと共演の『ジゼル』、モーリス・ベジャール振付・演出による『ボレロ』で、大成功を収めた。日本舞台芸術振興会(NBS)は2011年夏のプログラムを彼にすべて一任。独自の振付を披露する絶好の機会となった。だが、福島原発事故の余波で、この期待は打ち砕かれる。彼は日本行きをキャンセル、以来、日本の観衆は彼を待ち続けることになる。
ニコラ・ル・リッシュは、7月9日夜の忘れがたい奔放なショーをもって、そのオペラ座でのキャリアに幕を閉じた。現在は、クレールマリー・オスタとともに、オリジナルスペクタクル『イチネランス』公演のためフランスを回っている。11月にはシャンゼリゼ劇場での自由プログラム、来年3月には勅使川原三郎演出で、藤倉大のオペラを上演予定だ。ニコラには、不運な巡り合わせにより空白となった、日本でのオリジナルプログラムのページをぜひ書き上げてほしいものである。若かりし頃の彼のため散財を惜しまなかった熱烈なファンたちが、首を長くしてその登場を待っている。
文:アルノルド・グレーシェル、新書館『ダンスマガジン』のご厚意に感謝いたします。


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『ダンスマガジン』編集長の浜野文雄は、ニコラ・ル・リッシュの経歴をデビュー当時から追ってきた。彼は我々の質問に快く答えてくれた。ニコラ・ル・リッシュの公演で特に感動したものはありますか?
浜野 : 彼がクレールマリー・オスタと踊ったロラン・プティの『アルルの女』ですね。二人とも、その役柄の強烈さを、完璧に、感動的に演じていました。最後、主役は跳びはねながらソデの方へ消えてゆくのですが、ニコラはオーケストラボックスに、つまり観客の方へ向かって跳び下りることを選んだのです。それが非常に印象的でした。僕は、イジー・キリアーンの『優しいうそ』やマッツ・エックの『アパルトマン』を彼がシルヴィー・ギエムと一緒に踊っているのも、とても好きです。

日本の観客から見て、彼は特別なダンサーなのでしょうか?
浜野 : 彼が踊るとき、そのエネルギーはいつも100パーセントを超えています。彼の身体的エネルギーは常にその限界を超越するように見え、それが実にすごい。特に女性の観客が酔いしれるのはそこなんです。シルヴィー・ギエムは日本では完全に別格のスターなのですが、ニコラはその理想のパートナーとしても考えられています。(敬称略)

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