歴史:マザラン所蔵の日本製の櫃(ひつ)が発見された!

競売吏の親子、父フィリップ・ルイヤックと息子エムリック・ルイヤックが出会った驚愕の製品とは・・・。マザランが所有していた日本製の漆塗りの櫃だ。

奇妙なホームバー
すべては2013年1月21日に始まった。フィリップ・ルイヤックは、ある夫婦が売却を希望する民家を査定するため、仏ヴァル・ド・ロワール地方の夫婦の元を訪ねた。夫婦は、せっかくだからとテレビ台として使われていたアルコールが入った箱から、ワインを1本取り出した。夫婦が、この箱がどのように我が家の「ホームバー」になったかを語り始めたとき、フィリップはその品の前で動けなくなった。というのも、リキュール類の色で汚れてはいるが、同じような櫃をロンドンのヴィクトリア・アンド・アルバート美術館で目にしたような気がしたからだ。帰宅後、フィリップは美術館のホームページを開き、まさにそれがマザランが所有していた二点一組の櫃のうち、所在不明だったものであることに気づく。1941年以来、この櫃はロンドン空襲の際に失われたものと考えられてきた。息子エムリックは、マザラン卿の所蔵品目録をつぶさに調べた。マザランは、1661年に死去する前、姪にその品を遺贈し、姪は経済的な理由からそれを競売にかけている。結果、櫃はイギリスへとたどり着くことになり、そこでフランス大革命の後、当時最高のコレクションに加えられた。そして最後は、ヴァル・ド・ロワール地方の民家に収まったというわけだ。

櫃は黒地に金・銀・螺鈿(らでん)をあしらった漆塗り仕上げ。おそらく1640年から1650年にかけて京都で製作されたもので、上蓋には、若い弓取りが修行の旅の末、知恵を身につけるという物語が描かれている。実際、この櫃は、名古屋・徳川美術館収蔵の《初音の調度》と呼ばれる一連の調度品によく似ている。三代将軍徳川家光の娘千代姫が1639年に婚嫁した際、この調度一式を持参した。これは、「嫁入り道具」の慣習により、花嫁は嫁ぎ先に移るにあたって、新調の家具類を持参することになっていたからである。これらの調度一式は1637年から1639年に、将軍家御用達の職人、幸阿弥家が製作したものであることから、マザランの櫃も同じ工房の作ではないかと考えられている。九州国立博物館研究員の川畑憲子氏は、マザランの二つの櫃を間近に見て、「中国や韓国のモチーフを採り入れており、輸出用でしょう。おそらく幸阿弥の工房で作られたのだと思います」と語る。

マザランの足跡をたどる
史料によると、ルイ14世のパトロンでもあり、当時ヨーロッパで最も財力を有した人物の一人であったマザランは、四つの櫃を発注し、1653年にヴァル・ド・ロワールの民家にあったまさにその櫃を購入したとされる。これらの櫃は1643年、オランダ東インド会社の船の船倉に収まり、日本を出発したようである。日本の鎖国以来、オランダ人のみが、長崎沖の出島を通して日本との交易を行うことができた。これら四つの櫃のうち、一つはヴィクトリア・アンド・アルバート美術館にあり、二つ目もひょっとすると同美術館の別の建物へと分散しているのかもしれない。当時のヨーロッパ、特にフランスできわめて一般的であったように、二つ目の櫃は複数のパネルに分解され、館内の他の家具類へと組み込まれている可能性がある。

ヴァル・ド・ロワールで見つかった櫃は、2013年6月9日にアムステルダムのレイクスミュージアムがシュヴェルニー城で行った競売において730万ユーロで落札されたが、元はと言えば、これはそのフランス人所有者がロンドンでポーランド人の医師からなんと120ユーロで購入したものだった。櫃は稀に見る良い保存状態で、ルーヴルとヴェルサイユにあったマリー=アントワネットの漆製品も手がけていた、ブリュジエ工房により復元された。もっともルイヤック親子は、この調度品の驚くべき足取りを物語るアルコールの染みを残しておきたいと考え、復元はわざと未完の状態にとどめることにした。これは日本の美術品としては、2008年に落札された十二世紀の仏像に次いで高額の品となった。
徳川美術館研究員で鶴見大学教授の小池富雄氏は、同僚の川端憲子氏と同じく、ヴァル・ド・ロワールの櫃は、江戸時代(1603年〜1868年)の輸出漆器としてはまさしく最高の品であり、したがって「世界にただ一つしかない家具」だと語っている。

クリスチアン・ケスラー 歴史家、東京アテネ・フランセ客員教授、大学教員。共著『フクシマのサムライたち』(ファイヤール出版社、2011年)

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