歴史: グロード神父――その賞賛すべき人生

フランスと日本は、一人のかけがえのない神父を失った。その規格外の人生を友クリスチャン・ポラックが偲ぶ。

1955年、任地日本へ
1927年7月6日、ヴァンデ県ロシュゼルヴィエールに生を受けたフィリップ・グロードは、若き日よりパリ外国宣教会に入会し、自ら進んで行動を起こす積極的な宗教活動に身を投じる。1953年12月19日に神父の職位を拝命すると、その一年後には日本の任地に向けて旅立った。1955年の初頭に道南の港町、函館の地に降り立つと、すぐさま日本語を習得すべく、同僚聖職者らとともに現地で牧師生活を開始する。翌年、五年の任期で郊外の小村、八雲町に赴任。1961年には再び函館に戻り、函館元町カトリック教会主任司祭に就任する。それは奇しくも、パリ外国宣教会が開国間もない幕末の日本に遣わした草創期の神父の一人、エマニュエル・メルメ=カション(写真参照)が1861年、箱館(函館)ハリストス正教会に隣接する土地にカトリック式の教会を創建してから満百年を迎えた年であった。旺盛な開拓者精神、周りの者も知らず知らずのうちに顔をほころばせてしまう、無敵の感染力を持つその微笑(ほほえみ)、舌を巻く行動力、そしてまだ誰も見たことのないものを立ち上げる創建者と企業家の気質とを兼ね具えたこの司祭は、その生涯を通じて「素晴らしく立派で、賞賛に値する人たち」と形容した教区の住人にもすみやかに受け入れられることとなる。数々の文化的催しや社会福祉活動にも乗り出し、多くの友の支援を得て保育園、幼稚園、知的障害児のための施設など、いくつもの児童受け入れ施設を創設した。

その人生は他者のために…
1970年代初頭、この外国人神父の革新性を見込んだ函館の名士が、この人ならば自分の火急の課題への答えを出してくれるのではないかと訪ねて来る。「身体や精神が不如意な高齢者の助けになりたい。どうすればよいか教えてほしい。」グロード神父はまず自分がこの分野では全く無力であると感じた。だが、こうして声が掛かったのは、この分野でも地域に資せよとの神の思し召しに違いないと考え、無知を承知でこれを引き受けることにした。まずは老人病とは何かを学ばねばならない。独学で知見を得てから、同分野のノウハウで定評あるフランス、スイス、米国といった諸国の友人らに連絡を取った。数々の施設を巡り、専門家との面会を重ねた。その進取の気鋭は函館市と近隣教区の人々を動かし、国内外の慈善家や篤志家が集結、瞬く間に土地買収に必要な資金が集まった。そして1977年、函館湾の絶景を望む市内北部の丘の斜面に「旭ヶ岡の家」がオープンする。それはホスピスではない。入居者は笑顔で暖かく迎えられ、各人があれもしたい、これもしたいという願いを通じて生きる喜びを表現できる、まさに「わが家」と呼べる施設なのだ。他者の尊重を第一義とするこのホームが理想とするのは、入居者が障害や苦痛を忘れて日々を暮らせること。家族らも老親を預けきりにするのではなく、ホームでの暮らしに積極的に寄り添えるようにと、ワンルームの家族向け宿泊施設が増建された。コンサートや演劇、書道に詩歌、囲碁・将棋、デッサン・絵画など、催し物には事欠かない。24時間オープンのこの家はホテルさながらの造りになっている。エントランスロビー中央には創設者デザインによる錬鉄製の巨大な暖炉に赤々と火が灯り、入居者と訪問者とが共に利用できる大食堂は、その陽気な内装でゲストを楽しい食事へと誘(いざな)う。集会室では数々のリクリエーションや工房、演芸が催され、グロード園長自ら趣味で描いた『素樸派名画』の数々が廊下の壁に彩りを添える。入居者は大部屋ではなく、個室で暮らせ、その窓からは函館湾と街、あるいは公園が一望できる。おまけに理髪・美容室まで完備している。老人ホームの手本とまで謳われるこの施設の驚くべき成功の秘密を探ろうと日本の津々浦々、世界各国から人々が訪れる。グロード神父は、ホームの運営には後援会の支援を、そこでの音楽等の各種催しには多数の市民サークルの協力をそれぞれ得て実施するなかで、これに資する優れた人材を見出し、自発的な参加と献身の精神を育む術を心得ていた。ホームは年を追うごとに拡張され、入居待ちのリストは長くなる一方だ。現在ホームの敷地は11ヘクタールに及び、ここには公園や認可墓地などもある。園長を務める神父は1977年より国連の主導する『高齢者のための国際行動計画』の起草作業に参加し、同文は1982年の国際高齢者年に開催された「高齢化に関する世界会議」で採択されることとなる。この年、神父は同分野の専門家としてユネスコ主催の国際会議に多数(ローマ、バンコク、マニラ、ウィーン)出席した。1984年にこのテーマに関する初めての本を上梓して以来、多数の著書を発表し続けてきた。

歴史家としての人生
歴史を愛するフィリップ・グロードは、第二の故郷、函館の歴史にも大いに関心を示した。ジュール・ブリュネに関する研究をさらに推し進めるよう筆者を説得したのも彼だった。ジュール・ブリュネは『ポリテクニシャン』と呼ばれる理工科学校出身のフランス陸軍士官である。1868年、最後まで将軍家への忠節を誓う旧幕臣らと共に、束の間の「蝦夷共和国」建国に身を投じた。これは日仏関係史において一際異彩を放つエピソードである。筆者はフランスでジュール・ブリュネの末裔と面会し、彼らが大切に保管していたブリュネの水彩画アルバム2冊を借り受け、1988年に北海道立函館美術館で一度限りの展覧会が実現した。またグロード神父は街の中心部に位置するヴォーバン式要塞・五稜郭を利用して、ヴァンデ県ピュイ・デュ・フー村で行われているような音と光の祭典を開催したいという希望を抱いていた。その強い熱意は文化庁の植木浩長官を動かし、商業的・社会的活動を目的とする特別史跡の使用が日本で初めて許可された。1988年、2,000人を超えるボランティアの参加を得て、函館野外劇の第一回公演の幕がついに切って落とされる。この催しには、グロード神父自身もジュール・ブリュネ役で幾度か出演した。2013年、26度目の公演の幕が開いた。だがそれは創始者の姿を欠く初めての野外劇となった。
1991年にはレジオン・ドヌール勲章シュヴァリエ章を受章、1998年には日仏友好親善に対するその功績が認められオフィシエ章に格上げされた。また函館市からも数々の表彰を受けている。2001年には日仏親善函館発祥記念碑の建立を主導した。これは1855年に市内の寺の僧侶たちがフランス人水兵を温かく迎え入れ手当てを施したという出来事を今に伝えるものである(写真参照)。2005年、神父は函館滞在50周年を迎え、これを祝して自らの手になる絵画の展覧会が友人らの発案で開催された。筆者は神父の書斎で夏目漱石などの日本文学や、互いの将来の計画などについて時が経つのも忘れて語り合った。この時神父から明かされた最新プロジェクトが、1984年フランスのブザンソン市立美術館で発見された『夷酋列像』を日本に里帰りさせるというものだった。『夷酋列像』とは、松前藩家老で絵師の蠣崎波響が1790年までに松前城で描き上げたアイヌ首長11人の絹本着色肖像画である。この企画は2012年9月に実現し、松前町と函館市で8枚の絵が展示され、オープニングセレモニーにはブザンソンのジャン=ルイ・フスレ市長も臨席した。同市長は偶然にもヴォーバン主要景観網の会長職も兼ねていた(ヴォーバン様式の防衛施設群12箇所は、数年前に世界遺産登録されている)。そこで、グロード神父は訪日した市長に五稜郭の歴史を説明し、この史跡を主要景観網に登録し、世界遺産に指定された12箇所の列に加えて欲しいと直訴したのだった。当時、フランスでは日本にも五稜郭というヴォーバン式要塞があることを知る者はほとんどなく、忘れ去られた存在となっていた。
病に苦しみながらもグロード神父は笑顔を絶やさず、筆者に宛てた手紙の中でもユーモアを忘れなかった。「旅立ちの時がいよいよ近付いて参りました。でも、今回の休暇ではゆっくりと骨休めをするつもりですから悲しむには及びません。どうか私の計画を引き継いでいってください!」そして2012年の降誕祭を門出の日と定め、逝ってしまった。

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