「記憶のトンネル」

海軍総司令部
慶応大学日吉キャンパスの下、30メートルの地下に、長さ5キロメートルのトンネル(日吉台地下壕)が通っている。知っている人はほとんどいないこのトンネルには、第二次世界大戦中、日本帝国海軍総司令部が置かれていた。1943年4月に山本五十六元帥、次いで1944年3月に古賀元帥と、二人の総司令官の相次ぐ戦死があり、後継者であった豊田元帥の身の安全が課題となる中、この土地が選ばれた。
豊田元帥はその司令部を戦艦「大和」の艦上に置いていたが、「近代戦」が海戦の条件を根本からくつがえした。作戦の舞台は大きく広がる。アジア太平洋戦争は、陸・海・空のすべてにおいて戦われ、とりわけ、その複数の前線は広大な太平洋上に展開していく。1944年4月30日、東京湾にあった巡洋艦「大淀」はテストベンチとして使用されることになったが、マリアナ沖海戦で明らかになったように、総司令部の名に恥じないような場所も技術的能力も備えてはいなかった。日本の戦局は危機的、ひいては壊滅的な状況であっただけに、事態は切迫していた。折しも米軍艦隊によるサイパンの占領により、日本本土が敵の空襲にさらされることになったからである。

空襲の空の下で
そしてレイテ島決戦前夜の1944年9月、日本帝国海軍はその総司令部を、皇居の近くであり横須賀海軍工廠からも遠くない慶応大学日吉キャンパスの地下へと戻すことを決定する。その司令室は、厚さ40センチのコンクリートによって、米軍の執拗な空襲からしっかりと守られていた。海上の決戦のうち、 レイテ島(1944年10月)、硫黄島(1945年2月)、そして最初の本土決戦となった沖縄(1945年4~5月) などいくつかの指揮は、この指令本部から行われた。このトンネルは、ロンドンのチャーチルの防空壕と幾つかの共通点があり、体当たりによる特別攻撃隊「カミカゼ」の攻撃が組織されたのも、ここからであった。特攻隊には、多くの慶応大学が含まれていた。
戦後、放棄されたこのトンネルは廃墟となり、一部は泥に埋まった。1985年になって初めて、やっと慶応大学の研究者がそこに関心を持つようになる。この史跡のあまりの荒廃ぶりにショックを受けた有志が集まって、保存のための協会を設立した。2003年以来、毎年およそ50回にわたって、毎年約3,000人の訪問者が訪れる。しかし、慶応大学がこの半ば文化遺産ともいえる史跡への興味を示さないことを憂慮した協会は、そこに博物館を建てることで、このトンネルを第二次世界大戦の記念の地にしたいという希望を表明した。2013年4月から5月、ある不動産開発業者がトンネルの入口の一つをコンクリートで埋め立てたのをきっかけに、協会はそこの土地の法的管理者でもある横浜市にかけ合い、文化財を含む保護区としてのトンネルの存続を脅かす、不動産的投機をやめさせるよう要請した。
政府も、軍の跡地の保存に関する大々的検討を行うべく、腰を上げた。こうして800以上にのぼる跡地が、その推定される重要度に応じてA、B、Cのカテゴリーに分類されることになる。本稿で取り上げたトンネルの場合、戦争理解のために不可欠であるとの当局の判断から、カテゴリーはAとなった。だが、このような戦争にまつわる跡地を保存することには、意味がないと考える向きもいまだに多い。確かにこれらの跡地は、軍国日本という好ましからざるイメージを発信しかねない。しかし、その保存がなければ、このトンネルが、あたら若者たちを死地へと送り出したという事実を忘れることにもなるのだ。

ジェラール・シアリー 
モンペリエ大学教授(比較文学)、翻訳家、日本の専門家。
クリスチアン・ケスラー
歴史家、アテネ・フランセ東京客員教授、大学教員。

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